阿波踊り&エイサーのリズムと歴史考察
気になったので調べてみました。
あのチャンカチャンカのリズム(阿波踊り)とドドンガドン(音頭)のリズム、成り立ちが違うのは想像ついてましたが、もうちょい解像度が上がりました。
あくまでも個人的な見解ですので正確な裏付けがある訳ではないので悪しからず。個人的に納得ができる所までの話です。
阿波踊りのリズムとエイサーのリズムが似てると感じていましたが、源流は「念仏踊り」で間違い無さそうです。
浄土宗の布教の一環で念仏に踊りをつけたとされる流れは納得できます。
確かにソーラン節に代表される様な作業歌、ドッコイショ〜とリズムが腰掛けるものと、念仏を唱える為に必要な一定のビート感は目的が違うだけに変わってくるのは頷けますし、リズムを聞いて貰えば一聞瞭然です。
その後は踊りの種類によっての進化や、盆踊りは猥雑なモノとして政府からの弾圧を受けたりと色んな進化の過程を辿り現在にたどり着きます。
政府からの弾圧、これはどこの文化でも起こってますよね。
アメリカのスピークイージー。
日本では演歌。
盆踊りが禁止されていても「これは念仏を唱えてるだけです」と弾圧をかいくぐる様は聞き慣れた光景です。※僕の想像です
西洋音楽教育が日本に入ってきた時に、半音階が取れない日本人、ジャズが入ってきた時にビートに乗れない日本人。
西洋文化を受入れる側からすると「できない→恥ずかしい」となり「日本人は裏拍がとれない→農耕民族だからリズム感がおかしい」みたいに教わってきましたが、そんな事はまったくないだろ!と強く反論したくなります。
こんなに踊りが大好きな国民性なんて他にないんじゃないかとさえ感じています。
そりゃ親しんできた音楽が違けりゃできる訳ないし…そんな事いったら和太鼓のキメなんかは西洋人からすると全く理解できないシロモノですし。
踊れて独特のリズム感とされてるキューバ人なんてクラーベを「拍」で捉えてないっすからね?
「拍」という概念はあくまでも西洋音楽の文脈ですので、そりゃそうだ、なんですけど。
盆踊りの振り付けが平気でズレたりするのはキューバのクラーベ文脈と同じです。
西洋、アメリカに追いつけ追い越せではなくて、日本伝統の踊りやリズム感を世界に教えてあげる!くらいに考えた方が今後、日本の価値があがりそうなもんですけどね。。。